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錦秋の丹巴路を行く4
INDEX
- 錦秋の丹巴路を行く【八美から丹巴路へ】
- 錦秋の丹巴路を行く2【雅拉雪山を望む】
- 錦秋の丹巴路を行く3【紅葉の丹巴路1】
- 錦秋の丹巴路を行く4【紅葉の丹巴路2】
- 錦秋の丹巴路を行く5【四姑娘山の秋】
秋の丹巴路を歩きながら中国の秋を想う。日本の秋と中国の秋、そこに暮らす人々に秋への思いは違うのだろうか。日本では“黄色い秋見つけた”の歌もあるが「紅萌ゆる、丘の花」の詩にあるように秋は“紅萌ゆる”である。だが中国はそうでもない。中国の秋は色彩では銀杏などの黄色が多い。自らも上海や天津また南の広東省で生活したが「紅萌ゆる秋」の印象は少ない。漢詩にも紅葉をめでる詩は少なく、秋のわびしさと人生の悲喜を詠む詩が多いと思う。春は「白水満春塘」(輝く水が春の堤に満ち)や「桃之夭夭 灼灼其華」(若々しい桃、光り輝く花)や「春草」など、春の息吹とみなぎる力が詠われるが、秋は「野風吹秋木 行子心腸断」(野の風が秋の木に吹き渡り、旅行く人は寂しさが腹の底までしみわたる)「秋風吹飛藿 零落従此始」(秋風が豆の葉を吹き飛ばす時、零落が始まる)のように侘しさ、寂しさが詠まれる。秋に人の世の淋しさを感じるのは日本も中国も同じだろうが、中国では秋の侘しさは、秋が紅に萌えないことも一因でないかとも思う。だが、丹巴路の秋は雄大で“黄色い秋見つけた”のすばらしい秋だった。