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天山の浪漫の回廊3
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- 天山の浪漫の回廊【中天山から国道218号を行く1】
- 天山の浪漫の回廊2【中天山から国道218号を行く2】
- 天山の浪漫の回廊3【中天山から国道218号を行く3】
峠にはチベット仏教の五色の祈祷旗“風馬旗”が風に舞っていた。亀磁(キジ)国”の時代にもこの旗は舞っていたのだろうか。漢、唐の時代には多くの人が玉門関を越えてこの地に来ただろう。それはシルクロードの東西交易の旅だけでなく、果てしなく続く遊牧民、匈奴との戦いのためでもあった。そして多くの詩人が戦いの虚しさを詠った。王昌齢の「出塞」には「秦時明月漢時関 万里長征人未還」(秦の時から変わらぬ名月、漢の時代に築かれた関所、万里の地で戦う人はいまだに還らず)と詠んだ。王維は「九月九日憶山東兄弟」で「独在異郷為異客 毎逢佳節倍思親」(一人遠い異郷にあり異客となり、節句の日が来るたびに親、兄弟を思う)と詠んだ。李白は「万里長征戦 三軍尽衰老 匈奴以殺戮為耕作」(万里のかなたで長い戦いを続け、三軍の兵は皆老いて衰弱した、匈奴はまるで田を耕すように殺戮を行う)と詠んだ。「春光不度玉門間」(春の光は玉門関を越えては届かない)と言われた。洛陽の都からここまで3千㎞以上ある。たなびく“風馬旗”は古の人々の悲しみを今も伝えるように風になびいていた。